Marelli Family History

Vol.1 希望は永遠に刻まれる。家族の歴史の轍に(1882~1920)

ここに、“Marelliブランド”を作り上げた、マレリー家の人々について語ること、長きにわたって愛され続けているマレリーを語ることは、イタリアという国の美しさ、歴史を語ることと同じように嬉しく思います。世界に知られた“Marelli” ブランドを培ってきたのは、3代に亘るマレリー家の人々でした。私たちは、イタリアの伝統とセンスの良さ、上品さをモットーに、エレガントで高品質な製品を作り上げ、ファッションをリードしてきました。130年を一言で語ることは難しいことですが、私自身にとっても大切なテーマであると考え、家族の歴史を語っていきたいと思います。

私の祖父でもある、初代 ジョルジョ・マレリー(Giorgio Marelli Sr.)は、1882年、ガララーテ(Gallarate)の北の丘の上にあるCrennaという町で生まれました。Crennaの町には、中世の素晴らしい古城があります。ジョルジョは8人兄弟の4番目でした。彼の2人の兄は建設業に携わり、もう1人の兄はアメリカへ移民し、その子供は地元警察の重要な役職につきました。

1900年初頭、イタリアはとても貧しい国でした。私の祖父 ジョルジョも小さい頃から働き始めました。建物の内装の仕事をして、家族のためにわずかながらもお金を稼いでいました。兄弟たちは皆、早々に自立して生活を営むため、希望を持って故郷を旅立ちました。

1904年、ジョルジョは、カゾリ・ジュゼッピーナ(Casoli Giuseppina 私の祖母)と結婚しました。そして1906年に“靴工房”を、ガララーテの中心であるアルネッタ通り(Via Arnetta)に開業しました。当時のアルネッタ通りは、徒歩や馬車で通る人々に便利な場所でした。二人はそこでオーダーメードの靴を作り、靴の修理をするだけでなく、皮革売買の商売も手がけました。皮革は靴の素材としてだけではなく、馬具あるいは他の製品の材料としても需要があったからです。

1906年、長男アルトゥーロ(Arturo)が誕生。のちに、マレリーブランドの2代目の家長となります。1909年、次男 ペピーノ(Pepino)が誕生。それが私の父です。ペピーノはたいへん賢く、仕事においても、友人関係においても、アイデアのある人として一目置かれる存在でした。1912年、三男フェリーチェ(Felice)が誕生。彼は企業経営者として、将来の製靴業界についてのしっかりとしたビジョンを持ちます。

しかし時代は、第一次世界大戦へと向かっていきます。3人の小さな子供を抱え、生活もたいへんな時代となりました。

ガララーテの周辺では、銀行からの融資、国からの援助を受けて事業をしている、大きな繊維会社がありました。人々は繊維事業に携われるように努力をしていました。私の祖父のように小さな商人にとっては、正直な心を持ち、自分自身を信じて商売をすることのみが明日への希望に繋がりました。

祖父の大変苦しかった時代について語りましたが、あらゆる困難に立ち向かい、希望を持って前進する祖父の教えは、私たちファミリーの中に永遠のものとして残りました。


Vol.2 誇りを持ち、生き抜く。オーダーメイドを産業化に(1920~1939)

たくさんの国々が、困難に立ち向かうことになりました。祖父が戦争に行ったかどうかはわかりません。ただ一つ覚えているのは、私が子供の頃、祖父に戦争経験を聞くと、いつも涙を流して“何も覚えていないよ”と言ったものでした。それだけ、ひどい経験をしたということなのでしょう。マレリーの家族も、親戚も、小さな子供を抱えていました。物資も何もない時代の苦労は計り知れません。

戦争の悲惨な思い出はさておき、その次の時代について語りましょう。戦争の傷跡は、それはそれは大きなものでした。しかしながら、私たちイタリア人はどんな時もそうであったように、国の復興に立ち向かいました。まさにこの時期は“工業化への時代”でした。職人たちが、小さいながらも企業として会社組織をつくり上げていったのです。私の祖父には、店の経営という大きな経験がありました。特に、“オーダーメードの靴”に関してです。また皮革の商売にも秀でていました。そして顧客のニーズをしっかりと掴み、“靴生産”を工業化していったのです。

十分な資金はありませんでしたが、大きく気高い志は十二分にありました。その頃のことを、父が私に語ってくれたことがあります。「おじいさんは、製靴機械を買うために硬貨、つまり小銭をコツコツと集めたのだよ。おじいさんと私は、機械の持ち主のところへ行って、機械を譲ってほしいと、袋にたくさん貯めた小銭を持っていったんだ。するとどうしたと思う? 機械の持ち主は、怒って小銭を床に投げつけたんだ。『小銭を拾え!そして、銀行に行って紙幣にしてから出直せ!』とね」

私は驚き、憤って、父に尋ねました。「それで、おじいさんとおとうさんは、どうしたの」と。父は穏やかな微笑みをたたえて、こう答えました。「もちろん、私たちは小銭をひとつひとつ拾い、銀行に行き、紙幣に交換して、機械を買いにいったのだよ」祖父と父の経験は、私に大切なことを教えてくれました。それは人としての「誇り」は心の奥底に持て、ということです。絶対に必要なものをまずは床にひれ伏しても手に入れるということ。その上で、人としての誇りを大事に持ち続けるということです。父はそれを時を経て示すことができました。マレリーが10年後、大企業となった後のことです。ある販売会社が父に資金融資を頼みに来た際、私の父は快く資金を貸し“本当の紳士”であることを示したのでした。

その後も、少ない機械と手縫いの技術を駆使して、沢山の苦労を重ねながら事業を拡張していきました。やがて工房では手狭となり、広い工場が必要になってきました。1928年、同じ敷地内にあった、廃業した繊維会社の倉庫を借り、マレリー製靴会社を創立します。時代は、家内工業から工業化への過渡期でした。

創始者であるジョルジョ・マレリーにとっては、手作りから産業化への転換について理解することは難しいことでした。しかし3人の息子たち、アルトゥーロ、ぺピーノ、フェリーチェは、産業人としての意識を持ち、企業を成長させていきました。さらに北イタリアを中心に多くの販売先もでき、事業は発展していきました。それにつれ、この倉庫でも手狭となり、最新の機械も必要となってきました。

ガララーテにあった、ある靴工場が倒産したことにより、大きな転換期が訪れました。その土地、工場、機械を、本社工場として購入することになったのです。莫大な購入資金が必要でした。自己資金はもちろんのこと銀行からの貸付も投資して、ガララーテ市のパリーニ通り8番地にマレリー製靴会社の本社を設けました。

1933年頃には、父を中心とした3人の息子たちは、その販売網をイタリアのみならずヨーロッパ全土へと広げました。エレガントさとクオリティ、堅実さを持ち合わせたマレリーの靴は、時と共に成功の道を歩んでいきました。イタリア国内はもとより、海外の店舗において、人々を魅了していきました。

3人の息子たちは、それぞれが持ち合わせた能力を生かし、それぞれ役割分担をしました。アルトゥーロは総務を、ぺピーノは生産を、フェリーチェは販売業務を担いました。工員は100名。事務職は3名。靴の日産は180足(まだまだ手作りの過程も多くありました。)

この時期は、総力をあげてマレリー製靴会社の拡大に努力し、イタリアの代表的な靴会社となりました。マレリーの靴は大小の都市の店で販売され、それぞれトップクラスの靴店で扱われるようになりました。またこの頃は、注文が生産を上回っていました。超多忙な状況でしたが、3人の息子たちはそれぞれ家庭も築きました。

1936年、ペピーノはルイージャ・リナルデイ・メディチと結婚。1937年、アルトゥーロはカンザーニ・ジュセッピーナと結婚。1938年、フェリーチェはマリア・バヨーニと結婚しました。社会情勢は様々な事件をはらみ、時代は第二次世界大戦へと向かうことになります。


Vol.3 最高の技術で最高の靴を。求められる靴作りの始まり(1939~1958)

第二次世界大戦が始まる前のひとときには、私たちMarelli一家にとって、ほっとするような幸せがありました。1937年に、ペピーノとルイージャ・リナルディ・メディチの息子として私は生まれ、ジョルジョ Jr.と名付けられました。2年後の1939年には、グラッツィエッラ(アルトウーロとジュセッピーナの娘)が誕生。翌1940年にはアメデオ(フェリーチェとマリアの息子)が誕生しました。

これまでは家族から聞いてきた事柄を記してきましたが、ここからは私自身の経験してきたことをお伝えしてまいりましょう。戦火が激しくなると、ガララーテも自由な外出は禁止となりました。窓にはブルーの紙を貼り、光の漏れるのを防いでいました。戦時中については多くを覚えていませんが、最後の空襲警報で、防空壕に入ったことは覚えています。ガララーテ駅の操車場も空爆をうけ、大被害にあいました。

1945年4月25日、イタリア解放の日の事はよく憶えています。両親と住んでいた、アルネッタ通りを連合軍の戦車とジープが行進し、チューインガムを投げていきました。私たちは、チューインガムを知らないし、どうやって食べてよいのかもわかりませんでした。上空に見える飛行機を、もう恐れなくてよいことだけがなんとなく分かりました。イタリアがドイツ軍に占領されていた戦時中でも、ガララーテの町は大きな戦災は避けることができました。戦時中、製靴工場はドイツ軍の占領下にあり、靴やブーツの生産を課されていました。そんな中で、わずかですが、市民の為の靴を生産することも許されました。しかし材料は軍からの割り当てで十分ではなく、型や生産足数も決まっていました。

5年にわたる戦争の後、マレリー兄弟は、とにかく事業の復興に燃え、技術の向上に努力を惜しみませんでした。1945~1955年は我が国にとって最高の時期だったとも言えます。戦争の瓦礫の中のヨーロッパで、優れた国として立ち上がったのです。誰もが自分のベストを尽くし、設備を整え、イタリアの本当の力を出し合いました。

国民がエネルギーを出し合い、国の再興を心から喜んでいました。全国の靴店は商売を再開するためによい靴を求め、マレリーは最高の紳士靴を生産しました。靴の需要が供給を上回っていた時期です。人々に強く求められたMarelliの靴は、生産する前に予約で完売していました。

一方で戦争終結時期、産業界は電力不足という困難な状況にありました。機械の電動力がなかったのです。しかし幸いなことに、Marelli製靴会社は、電力不足という事態を避けることができました。私の父、ペピーノが、戦争終結の直前に、マルペンサ地区(現在、国際空港があるところです)の軍施設から自社工場へ発電機を運んだのです。もちろん、許可がなければ資材の持ち出しはできません。それほどに、父は機械について知識があり、信用を得ていました。父は息子である私を連れて、たくさんの部品を運び出し、バラバラだったエンジンを靴工場の発電機に組み立て直しました。こうして、爆撃で破壊された電気施設が復興するまでに2年かかったにもかかわらず、私たちの靴の生産はその間も休むことなく続けることができたのです。

この時期、もう一つの思い出があります。1台の古いトラックがあり、配送に使っていました。私たちは出来上がった沢山の靴を積んで、ガララーテからミラノを経由し、150kmも離れたボローニャまで靴の配送に出かけました。ローマ時代に“エミリア街道”と呼ばれた道路を南下するのですが、トラックで50回ほど発送されたボローニャ向けの靴は、一度としてボローニャには届きませんでした。なぜなら、ボローニャに到着するまでに完売してしまったのです。戦後の“靴需要”は、それほど多かったのです。

1950年代の初め、マレリー製靴会社は、選ばれた素材と高い技術により、“Eleganza e Solidita ”(エレガンスと確かなものづくり)という二つの評価を得て、ブランドとしての確かな地位を築きました。1955年には、日本のユニオン・ロイヤル株式会社と技術提携に向けての歩みがスタートしました。また1956年には、Vigevanoにある靴の製造機械会社との共同開発で、メッシュ革を使った靴の産業化に成功しました。私は、小、中学校を終え、経理と会社経営の高校を卒業後、ミラノのカトリック大学にて学びました。そして1958年、正式にマレリー社に入社しました。私の研修時代の始まりです。


Vol.4 クラシック・エレガンスは、時の流れに淘汰されるものではない(1950~1970)

1945年終戦の年、マレリーファミリーに新しい家族が加わりました。アルトゥーロに、フランコ(私の従弟にあたります)が誕生。第3世代のうち、一番若いメンバーです。フランコはスイスの高校で学び、ドイツ語を習得しました。

さて、私自身についてお話しいたしましょう。1958年1月、マレリー製靴会社の社員として仕事を始めました。正直に言うと、はじめは理論と実際の仕事との違いに多少の戸惑いがありました。しかしだんだんと、多くの経験を重ねることで、自分の将来が形成されるのだと考えるようになっていきました。

最初の3年は、生産の過程を学びながら仕事をしました。革素材の管理、裁断、縫合、木型、靴底、そして商品管理、出荷と全ての過程。この3年間の経験で、その後の自分の役割をはっきりと認識することになりました。また自分に適した仕事を見極めることにも役立ちました。私は小さいころから、デザインをすること、絵を描くことがとても好きでした。そして今でも、文化、哲学、創造に対して深い興味を持ち続けています。イタリア国内外の芸術家たちの展覧会へ出かけたり、美術館巡りをすることも靴の木型のかたちや素晴らしさを理解するための基礎となりました。3年間の研修期間の後は、木型、デザイン、革材料、色についての仕事に関わるようになりました。また会社の経営と経理についても学びました。私にとって一番の先生は、3人兄弟の長兄であり、会社の経営に長く携わっていたアルトゥーロ(伯父)でした。

1950年から1970年は、イタリアの靴が世界中に知れ渡った時期でした。特に、マレリーの靴はイタリア国内、及び国際市場にその名が知られるようになっていきました。戦後のマレリー製靴会社は、ガララーテおよび、その周辺に直営店を経営していました。加えて、その他に大手の靴卸会社が取引先であり、50km/100km離れた都市でもマレリーの靴が販売されていました。そして従兄弟のアメデオもマレリー製靴会社に加わります。

1955年から1960年にかけては、オーストリア、イギリス、フランスなどのデザイナーや技術者との協力による靴生産の経験から、オランダの販売会社とも業務提携をしました。当時のマレリー製靴会社は、靴業界の“港”の役目を果たしていたと言えます。靴の販売先から、素材の仕入れ先、すべての業者の中心的な存在でした。靴の日産数量は、自社製品が600~700足。OEMを含めて、一日1,500足の靴を販売しました。委託生産工場は3社ありました。そのうち2社がミラノ北西部のVigevanoに、1社はトスカーナ州でフィレンツェの西にあるMonsummano Terme にあり、Marelliの靴だけを生産していました。経営には、一族すべてが必ず関わっていました。1972年には、第3世代の一番若いフランコが加わりました。

1968年から1975年にかけては、イタリアのみならずヨーロッパ全体が経済不安定の時期でした。頻繁な労働者ストライキ、賃金上昇、素材上昇などマイナスの要因ばかりでした。また、労働者の世代交代もあり、若い労働者の意識の変化が加わりました。海外の取引先は、素材高騰により、単価の上がったイタリアの靴の購入を控えるようになりました。他国業者へのシフトが始まったのです。顧客はスペイン、ギリシャ製の靴へと流れていったのです。その後、ギリシャの価格が合わなくなると、さらに台湾、サント・ドミンゴ、韓国などへ流れていきました。

この現象は、高級な靴生産会社であるMarelli製靴会社にとっては大きな痛手でした。販売数量は減ってゆき、市場全体の流れは、低価格の商品追求へと向かっていくようになります。私は当時の大変重要な会議のことを憶えています。父を含めた3人兄弟と幹部、デザイナーによる会議でした。1970年前後の靴のファッション傾向は、重い靴、幅広のアッパー、2重、3重の靴底がベースとなり、提案されるカラーもおかしな色使いで、当時の私たちにとってはあまり好感が持てませんでした。会議の議題は、「この新しい傾向に従うか、あるいは、長い間培ってきたステータスシンボルである“クラシック・エレガンス”を続けていくべきかどうか」ということでした。

「クラシック・エレガンスは時代の流れに淘汰されるものではない」

長い話し合いの結果、私たちはその答えにたどり着きました。自社の創業以来のテーマを継続するという方針を決定したのです。常に社会に提案してきた、美しさとエレガンス、イタリアンクラシックというテーマは、マレリーという名前において、今も昔も変わらないポリシーでした。


Vol.5 変化のなかに息づく、永遠の靴への思い

1950年から1970年にかけて、Marelli製靴会社が企業として大きく発展する過程についてお伝えしてきましたが、ここからは、同時期における一族ひとりひとりについてのお話です。

はじめに、もちろん創業時の3人のマレリー兄弟についてです。伯父、私の父、叔父。3人がそれぞれの部署にいたことを思い出します。長男のアルトゥーロ伯父は、事務、経理の社員のいるオフィスで、会社経営を担当。太い声、ヘビースモーカー、鼻の途中でとまった分厚いレンズのメガネ。計算が早く、人の名前と数字をすぐに覚えました。

毎週土曜日の5時には必ずアルトゥーロの部屋に集まり、各自の来週の予定と仕事の確認を行っていました。3兄弟の次男である、私の父・ペピーノは機械に関して並外れた才能を持っており、工場の生産計画も担当していました。良い靴を生産するために、機械を組み立てたり、分解したり、あらゆる努力をしていました。

ペピーノは机の前に座っていることはほとんどなく、日がな一日、工場にいました。一番最初に会社に来て、最後に帰宅するのが父でした。工場が常に最先端の技術を使って稼働できたのは、父の功績であったといえます。3男のフェリーチェ叔父は営業担当であり、Marelliの販売に手腕を発揮していました。靴のサンプルを持参して、イタリア全国の顧客を訪問し、生産の確保に努力していました。

3人の兄弟は、それぞれの得意な役割を果たすだけではなく、他の業界で仕事をしていた親戚を誘い、さらに事業の拡大を推進しました。事実、出荷担当責任に従兄弟が抜擢されました。甥は、輸出業務責任者になりました。生産素材、皮革、革の倉庫管理は叔父が担当しました。家族のひとりひとりが、その個性と能力を発揮して会社を運営していくことができました。私を含めた3人の従兄弟、ジョルジョ、アメデオ、そしてフランコも、それぞれの部署で仕事をすることにより、将来の経営のために多くの経験をしました。

1950年から1970年の間は、あらゆる面で、良くも悪くも、たくさんの出来事がありました。私自身にとって、一番悲しかったことは、1955年に病気で母を亡くしたことです。母の死は、私の父、そして私自身の一生を完全に変えてしまいました。悲しみを乗り越え、私は高校で商業を学び、ミラノのカトリック大学でさらに学識を深めました。父は仕事にさらに集中し、特に、海外へと力を注いでいくようになりました。

この時期、Marelliイタリアと日本のユニオン製靴との最初の接点がありました。東京のイタリア大使館の案内で、日本の製靴業界代表団のイタリア訪問がありました。担当していた商業部のミケーリ氏は、完璧な日本語を話されました。そしてANCI(イタリア製靴組合)本部を表敬訪問した際、私の父(ペピーノ・マレリー)に、その中のある会社がイタリアの靴会社との技術提携に興味を持っていることを伝えたのです。

当時、海外の企業との技術提携は、良い印象はありませんでした。多くのイタリア人は、母国の技術を国外に持ち出すことは間違いであると考えていました。しかし、私の父も二人の兄弟も、自由で開放的な発想を持っていました。「技術は常に新しく刷新されていくべきなのだよ。そして、私たちはそれをいつでも伝授できる準備ができているのだ」父のそんな考えのもと、日本の製靴会社(ユニオン製靴・現世界長ユニオン株式会社)に協力関係を受け入れる準備があることを伝えました。

イタリア、東京、イタリアと3度の会合を重ね、4度目(1955年)に東京で正式に調印式が行われました。調印後、技術提携が直ちにスタートし、その年の終わりには、日本から8名の技術者が派遣され、6ヶ月にわたる研修が行われました。研修員は、工場でマンツーマンによる指導を受けながら、生産工程における技術と、その生産システムを学びました。言葉や文化など様々な壁を乗り越えて、日本の技術者とイタリアの工員との間で交わされた技術提携と協力関係は、今日まで息づいています。


Vol.6 永遠に受け継がれていくもの

私のファミリーの歴史について語ってきました。“マレリー”を作り上げた人、その名を世界中に名前を広めた人、長い辛抱と勤勉な努力により高度な技術を保ち続けた人。・・・私たちの歴史はそんな人と人とが紡いできたものです。

まず第1章は、製靴会社マレリーを創業した私の祖父、ジョルジョ・マレリー・シニアのストーリーから始まりました。そして、第2世代の3人のマレリー兄弟、アルトウーロ、ペピーノ(私の父)、フェリーチェは、祖父が始めた仕事を受け継ぎ、各自の役目を忠実に実行し、会社を大企業に発展させたのです。この3人の努力なくしては、今日もマレリーが、変わらぬエレガンスをファッションの中で継続存在することができませんでした。私は世界の各国を旅しました。最後にもう一つ、嬉しいエピソードをお話ししましょう。ある国へ出かけましたおり、パスポートを見たその国の入国係官が言いました。

「苗字はMARELLI?」 「はい、そうです」「世界で、トップクラスのメンズシューズを作られる会社ですよね」私は笑顔で胸を張りました。「はい、そうです」驚いたことに、そこはマレリーの靴を直接輸出したことのない国だったのです。

生産から販売まで、マレリー工場の全ての人々、親子の職人、工場責任者、販売担当役員、デザイナー、パタンナー、と全ての社員の気持ちが「最高の靴を作ろう、そして最高の靴を売ろう」と心を一つにしてきました。そんな経営努力の積み重ねが私の胸に迫ってきたことは言うまでもありません。

高いポリシーを持ち続けること。最高の品質を目指すこと。細部にわたり配慮し、トップクラスの材料を使うことにより、最高の販売効果をあげること。成功は、偶然で到達するものではありません。“マレリー”という看板を背負い、日ごとに、年ごとに、年月を重ねて作り上げていくものです。

エピソードをもう一つ語りましょう。昔、アフリカ、ケニアのナイロビに行ったときのことです。ホテル・ヒルトンに宿泊し、スーツケースの中に礼装用の新しい“マレリーの靴”を1足持参していました。ある日、部屋の外にインド人の客室係が私を待っていました。「何か用ですか?」とたずねると、彼はこう言いました。「お客さま、お客さまはバッグの中に、”マレリー”ブランドの素晴らしい靴をお持ちです。もし、値段があまり高くなければ、購入したいのですが」彼の足を見ると、明らかに大足でサイズは45以上です。私の靴は42サイズでした。そこで、私は言いました。「君の足は大きすぎて、この靴は履けないよ」すると、彼はきらきらした目で言いました。「お客さま、私はこのホテルで働くまで、インドで長いあいだ靴職人の仕事をしていました。“マレリー”が世界で一番素晴らしい靴だということを知っています。この靴は履かないのです。飾っておいて、時々眺めたいのです。このような素晴らしい靴は世界にいくつも存在しないのです」私は彼の言葉に感動しました。そして、当然ながらその靴を、このインド人に贈りました。

ここで私のファミリー・ストーリーは終わりにしたいと思います。1980年から現在まで、たくさんの変化がありました。社会がめまぐるしく変わったのみならず、家族にもいろいろな変化がありました。何世代も続くファミリーにおいては、世襲が当たり前のように行われているように見えるかもしれませんが、次世代は違う歩みをするということもあり得ます。それも選択の一つでしょう。

Marelliファミリーの第3世代は、私の従兄弟である、フランコ、アメデオ、そして私の3人ですが、フランコ、アメデオは残念ながら、他界いたしました。また私の子ども達は、それぞれに違う道を選びました。それぞれの選択は、今イタリアが置かれている状況を見極めての選択肢であったと考えます。

現在は私の娘婿であり、皮革と繊維関係のエキスパートでもある、Alberto Mauri(アルベルト・マウリ)が、私たちMarelliの歴史を引き継いでいます。日本のマレリーブランドも、高いレベルで継続していただいていることに心より感謝いたします。今も名だたる場所で商品として手に取ることができることは、大変嬉しく、誇るべきことであります。携わってくださっているすべての皆様のご尽力に対して、これからも常に協力を続けていきますことを、私およびMarelliスタッフ一同、ここにお約束いたします。

ガララーテ、2013年9月30日
3世代目当主 ジョルジョ・マレリー