Marelli Family History

5 変化のなかに息づく、永遠の靴への思い

(ここに掲載された内容は、3世代目のマレリー家当主 、ジョルジョ・マレリー Jr. によるものです。)

Giorgio&Arturo

 1950年から1970年にかけて、Marelli製靴会社が企業として大きく発展する過程についてお伝えしてきましたが、ここからは、同時期における一族ひとりひとりについてのお話です。

 はじめに、もちろん創業時の3人のマレリー兄弟についてです。伯父、私の父、叔父。3人がそれぞれの部署にいたことを思い出します。長男のアルトゥーロ伯父は、事務、経理の社員のいるオフィスで、会社経営を担当。太い声、ヘビースモーカー、鼻の途中でとまった分厚いレンズのメガネ。計算が早く、人の名前と数字をすぐに覚えました。

 毎週土曜日の5時には必ずアルトゥーロの部屋に集まり、各自の来週の予定と仕事の確認を行っていました。3兄弟の次男である、私の父・ペピーノは機械に関して並外れた才能を持っており、工場の生産計画も担当していました。良い靴を生産するために、機械を組み立てたり、分解したり、あらゆる努力をしていました。

 ペピーノは机の前に座っていることはほとんどなく、日がな一日、工場にいました。一番最初に会社に来て、最後に帰宅するのが父でした。工場が常に最先端の技術を使って稼働できたのは、父の功績であったといえます。3男のフェリーチェ叔父は営業担当であり、Marelliの販売に手腕を発揮していました。靴のサンプルを持参して、イタリア全国の顧客を訪問し、生産の確保に努力していました。

 3人の兄弟は、それぞれの得意な役割を果たすだけではなく、他の業界で仕事をしていた親戚を誘い、さらに事業の拡大を推進しました。事実、出荷担当責任に従兄弟が抜擢されました。甥は、輸出業務責任者になりました。生産素材、皮革、革の倉庫管理は叔父が担当しました。家族のひとりひとりが、その個性と能力を発揮して会社を運営していくことができました。私を含めた3人の従兄弟、ジョルジョ、アメデオ、そしてフランコも、それぞれの部署で仕事をすることにより、将来の経営のために多くの経験をしました。

 1950年から1970年の間は、あらゆる面で、良くも悪くも、たくさんの出来事がありました。私自身にとって、一番悲しかったことは、1955年に病気で母を亡くしたことです。母の死は、私の父、そして私自身の一生を完全に変えてしまいました。悲しみを乗り越え、私は高校で商業を学び、ミラノのカトリック大学でさらに学識を深めました。父は仕事にさらに集中し、特に、海外へと力を注いでいくようになりました。

 この時期、Marelliイタリアと日本のユニオン製靴との最初の接点がありました。東京のイタリア大使館の案内で、日本の製靴業界代表団のイタリア訪問がありました。担当していた商業部のミケーリ氏は、完璧な日本語を話されました。そしてANCI(イタリア製靴組合)本部を表敬訪問した際、私の父(ペピーノ・マレリー)に、その中のある会社がイタリアの靴会社との技術提携に興味を持っていることを伝えたのです。

 当時、海外の企業との技術提携は、良い印象はありませんでした。多くのイタリア人は、母国の技術を国外に持ち出すことは間違いであると考えていました。しかし、私の父も二人の兄弟も、自由で開放的な発想を持っていました。
「技術は常に新しく刷新されていくべきなのだよ。そして、私たちはそれをいつでも伝授できる準備ができているのだ」
父のそんな考えのもと、日本の製靴会社(ユニオン製靴・現世界長ユニオン株式会社)に協力関係を受け入れる準備があることを伝えました。

 イタリア、東京、イタリアと3度の会合を重ね、4度目(1955年)に東京で正式に調印式が行われました。調印後、技術提携が直ちにスタートし、その年の終わりには、日本から8名の技術者が派遣され、6ヶ月にわたる研修が行われました。研修員は、工場でマンツーマンによる指導を受けながら、生産工程における技術と、その生産システムを学びました。
言葉や文化など様々な壁を乗り越えて、日本の技術者とイタリアの工員との間で交わされた技術提携と協力関係は、今日まで息づいています。

マレリー3兄弟