Marelli Family History

4 クラシック・エレガンスは時の流れに淘汰されるものではない (1950~1970)

(ここに掲載された内容は、3世代目のマレリー家当主 、ジョルジョ・マレリー Jr. によるものです。)

 1945年終戦の年、マレリーファミリーに新しい家族が加わりました。アルトゥーロに、フランコ(私の従弟にあたります)が誕生。第3世代のうち、一番若いメンバーです。フランコはスイスの高校で学び、ドイツ語を習得しました。

 さて、私自身についてお話しいたしましょう。
1958年1月、マレリー製靴会社の社員として仕事を始めました。正直に言うと、はじめは理論と実際の仕事との違いに多少の戸惑いがありました。しかしだんだんと、多くの経験を重ねることで、自分の将来が形成されるのだと考えるようになっていきました。

 最初の3年は、生産の過程を学びながら仕事をしました。革素材の管理、裁断、縫合、木型、靴底、そして商品管理、出荷と全ての過程。この3年間の経験で、その後の自分の役割をはっきりと認識することになりました。また自分に適した仕事を見極めることにも役立ちました。
私は小さいころから、デザインをすること、絵を描くことがとても好きでした。そして今でも、文化、哲学、創造に対して深い興味を持ち続けています。イタリア国内外の芸術家たちの展覧会へ出かけたり、美術館巡りをすることも靴の木型のかたちや素晴らしさを理解するための基礎となりました。
3年間の研修期間の後は、木型、デザイン、革材料、色についての仕事に関わるようになりました。また会社の経営と経理についても学びました。私にとって一番の先生は、3人兄弟の長兄であり、会社の経営に長く携わっていたアルトゥーロ(伯父)でした。

 1950年から1970年は、イタリアの靴が世界中に知れ渡った時期でした。特に、マレリーの靴はイタリア国内、及び国際市場にその名が知られるようになっていきました。
戦後のマレリー製靴会社は、ガララーテおよび、その周辺に直営店を経営していました。加えて、その他に大手の靴卸会社が取引先であり、50km/100km離れた都市でもマレリーの靴が販売されていました。そして従兄弟のアメデオもマレリー製靴会社に加わります。

 1955年から1960年にかけては、オーストリア、イギリス、フランスなどのデザイナーや技術者との協力による靴生産の経験から、オランダの販売会社とも業務提携をしました。当時のマレリー製靴会社は、靴業界の“港”の役目を果たしていたと言えます。
靴の販売先から、素材の仕入れ先、すべての業者の中心的な存在でした。
靴の日産数量は、自社製品が600~700足。OEMを含めて、一日1,500足の靴を販売しました。委託生産工場は3社ありました。そのうち2社がミラノ北西部のVigevanoに、1社はトスカーナ州でフィレンツェの西にあるMonsummano Terme にあり、Marelliの靴だけを生産していました。経営には、一族すべてが必ず関わっていました。1972年には、第3世代の一番若いフランコが加わりました。

 1968年から1975年にかけては、イタリアのみならずヨーロッパ全体が経済不安定の時期でした。頻繁な労働者ストライキ、賃金上昇、素材上昇などマイナスの要因ばかりでした。また、労働者の世代交代もあり、若い労働者の意識の変化が加わりました。
海外の取引先は、素材高騰により、単価の上がったイタリアの靴の購入を控えるようになりました。他国業者へのシフトが始まったのです。顧客はスペイン、ギリシャ製の靴へと流れていったのです。その後、ギリシャの価格が合わなくなると、さらに台湾、サント・ドミンゴ、韓国などへ流れていきました。

 この現象は、高級な靴生産会社であるMarelli製靴会社にとっては大きな痛手でした。販売数量は減ってゆき、市場全体の流れは、低価格の商品追求へと向かっていくようになります。
私は当時の大変重要な会議のことを憶えています。父を含めた3人兄弟と幹部、デザイナーによる会議でした。
1970年前後の靴のファッション傾向は、重い靴、幅広のアッパー、2重、3重の靴底がベースとなり、提案されるカラーもおかしな色使いで、当時の私たちにとってはあまり好感が持てませんでした。
会議の議題は、「この新しい傾向に従うか、あるいは、長い間培ってきたステータスシンボルである“クラシック・エレガンス”を続けていくべきかどうか」ということでした。

 「クラシック・エレガンスは時代の流れに淘汰されるものではない」

長い話し合いの結果、私たちはその答えにたどり着きました。自社の創業以来のテーマを継続するという方針を決定したのです。
常に社会に提案してきた、美しさとエレガンス、イタリアンクラシックというテーマは、マレリーという名前において、今も昔も変わらないポリシーでした。