Marelli Family History

3 最高の技術で最高の靴を。求められる靴作りの始まり(1939~1958)

(ここに掲載された内容は、3世代目のマレリー家当主 、ジョルジョ・マレリー Jr. によるものです。)

 第二次世界大戦が始まる前のひとときには、私たちMarelli一家にとって、ほっとするような幸せがありました。
1937年に、ペピーノとルイージャ・リナルディ・メディチの息子として私は生まれ、ジョルジョ Jr.と名付けられました。
2年後の1939年には、グラッツィエッラ(アルトウーロとジュセッピーナの娘)が誕生。翌1940年にはアメデオ(フェリーチェとマリアの息子)が誕生しました。

 これまでは家族から聞いてきた事柄を記してきましたが、ここからは私自身の経験してきたことをお伝えしてまいりましょう。
戦火が激しくなると、ガララーテも自由な外出は禁止となりました。窓にはブルーの紙を貼り、光の漏れるのを防いでいました。
戦時中については多くを覚えていませんが、最後の空襲警報で、防空壕に入ったことは覚えています。ガララーテ駅の操車場も空爆をうけ、大被害にあいました。

 1945年4月25日、イタリア解放の日の事はよく憶えています。
両親と住んでいた、アルネッタ通りを連合軍の戦車とジープが行進し、チューインガムを投げていきました。私たちは、チューインガムを知らないし、どうやって食べてよいのかもわかりませんでした。上空に見える飛行機を、もう恐れなくてよいことだけがなんとなく分かりました。
 イタリアがドイツ軍に占領されていた戦時中でも、ガララーテの町は大きな戦災は避けることができました。
戦時中、製靴工場はドイツ軍の占領下にあり、靴やブーツの生産を課されていました。そんな中で、わずかですが、市民の為の靴を生産することも許されました。しかし材料は軍からの割り当てで十分ではなく、型や生産足数も決まっていました。

 5年にわたる戦争の後、マレリー兄弟は、とにかく事業の復興に燃え、技術の向上に努力を惜しみませんでした。
1945~1955年は我が国にとって最高の時期だったとも言えます。戦争の瓦礫の中のヨーロッパで、優れた国として立ち上がったのです。誰もが自分のベストを尽くし、設備を整え、イタリアの本当の力を出し合いました。

 国民がエネルギーを出し合い、国の再興を心から喜んでいました。
全国の靴店は商売を再開するためによい靴を求め、マレリーは最高の紳士靴を生産しました。靴の需要が供給を上回っていた時期です。人々に強く求められたMarelliの靴は、生産する前に予約で完売していました。

 一方で戦争終結時期、産業界は電力不足という困難な状況にありました。機械の電動力がなかったのです。しかし幸いなことに、Marelli製靴会社は、電力不足という事態を避けることができました。私の父、ペピーノが、戦争終結の直前に、マルペンサ地区(現在、国際空港があるところです)の軍施設から自社工場へ発電機を運んだのです。もちろん、許可がなければ資材の持ち出しはできません。それほどに、父は機械について知識があり、信用を得ていました。
父は息子である私を連れて、たくさんの部品を運び出し、バラバラだったエンジンを靴工場の発電機に組み立て直しました。こうして、爆撃で破壊された電気施設が復興するまでに2年かかったにもかかわらず、私たちの靴の生産はその間も休むことなく続けることができたのです。

 この時期、もう一つの思い出があります。
1台の古いトラックがあり、配送に使っていました。私たちは出来上がった沢山の靴を積んで、ガララーテからミラノを経由し、150kmも離れたボローニャまで靴の配送に出かけました。ローマ時代に“エミリア街道”と呼ばれた道路を南下するのですが、トラックで50回ほど発送されたボローニャ向けの靴は、1度としてボローニャには届きませんでした。なぜなら、ボローニャに到着するまでに完売してしまったのです。戦後の“靴需要”は、それほど多かったのです。

 1950年代の初め、マレリー製靴会社は、選ばれた素材と高い技術により、“Eleganza e Solidita ”(エレガンスと確かなものづくり)という二つの評価を得て、ブランドとしての確かな地位を築きました。
1955年には、日本のユニオン・ロイヤル株式会社と技術提携に向けての歩みがスタートしました。
また1956年には、Vigevanoにある靴の製造機械会社との共同開発で、メッシュ革を使った靴の産業化に成功しました。

 私は、小、中学校を終え、経理と会社経営の高校を卒業後、ミラノのカトリック大学にて学びました。そして1958年、正式にマレリー社に入社しました。私の研修時代の始まりです。